シロボのプロフィール・・・犬名ー白神号
       秋保登録番号95第862号
     平成7年1月14日、青森県 「満月荘」にて生まれる
                            父犬ー虎房号(94−3211)
                            母犬ー深雪号(93−2396)
   


子供の頃我が家にいた秋田犬クマは、現在見られなくなってしまった黒ゴマのおおらかでおっとりした大きな秋田犬でした。つい最近まで三河秋田と思っていましたが。 偶然出てきた血統証には、秋田犬協会の血統証で(秋協)登録番号23巻12207号・駒岩二号となっていました。 その頃は秋保、秋協の両団体を通してほとんどの犬に両犬の血が含まれるようになり、現在の秋田犬の祖になったのではないでしょうか。  このクマの頼もしい優しさが忘れられず、飼うなら秋田犬と心に決めていました。 子供たちから手が離れたのをチャンスに、再び秋田犬との生活を始めることになり、秋田犬の素晴らしさ、ちょっと困ったことなどを記してみようと思います。


  栃やちと、栃郎、シロボにしても幼犬時代は 昨今テレビのペット番組で見る大型犬 の幼犬に比べてずっと落ち着いていました。 家具をかじったり、スリッパをかじったりは日常茶飯事、私の新品の靴などは革の部分は全部食べられてしまったり、被害はそれなりにありましたが、動作はみんな落ち着きがあり秋田犬がモデルになったと言われている犬張り子を思わせるものがありました。 私が特に気を配ったことは、闘犬時代を過去に持つこの犬種が家庭犬として完全に家族の一員になれることと、わずか10ヶ月でほぼ成犬並の体格になるため、身体の成長においては短期決戦であるということを念頭において、成長期の病気はどうしても避けなければならないこと、特に腸が敏感なこの犬種にとって便の状態にはいつも気をつけていました。 まずは 大型犬という名称にふさわしく標準に示すように骨格は頑丈で太く筋肉は発達して体高、体重、体様などすべてが堂々した犬に仕上げなくてはなりませんので食事には気を配りました。幼犬用ドッグフードをあたえれば簡単ですが、最近皮膚病に罹る犬が増えてきているのはドッグフードの影響かも知れないということを知り、菜っ葉、芋類、根菜類などとご飯、それに全体量の半分以上を鰯とか鮪の血合いの部分などにして煮込み、その上に煮干し粉を一食につき大さじ3杯ほどかけて与えていました。日本犬としての素朴さ、簡素な雰囲気を持ち、大型犬の多くが持ち合わせている温和で従順な犬に、その上観賞犬と言われる故の美しい犬に、と思ってはいても 所詮単なる犬好きの域から出ることが出来ない身にとってはなかなか難しいことです。 しかしながら、垂れ耳差し尾黒マスクと言うような訳の分からない犬になってしまった秋田犬を今日見受けられるように大型日本犬として世界に誇ることが出来る秋田犬に純化し造り直してくれた日本犬愛好家、秋田犬愛好家たちのたゆまぬ努力と熱意を忘れてはならないと思い、秋田犬向上に精進しなければないと思ってます。 
 



秋田犬の歴史を振り返ってみますと 大正時代から昭和初期にかけての新秋田と言われていた頃の写真を見た時・・・・・・「えぇぇっー!何、これっ! まさか! どうして!やめてっ!」と叫びたくなるような、今の秋田犬からは及びもつかない犬でした。 土佐と秋田は闘犬が盛んであったのですが、秋田は和犬同士だったのです。 そこへ土佐が遠征してきて、秋田は大敗し、負けてはならじと土佐の血を導入した結果、大きく、強くはなったものの和犬の面影をなくしてしまったのです。  大正9年に文部省から天然記念物保存法の実施のために大館を訪ねた渡瀬庄三郎博士は新秋田ばかりの姿に失望し、指定は立ち消えとなってしまいました。 幸か不幸か新秋田の「舘勇」が土佐闘犬の「天城山」に敗れたおかげで闘犬は土佐ということになったわけです。 昭和6年に天然記念物に指定されてより、本格的に和犬復元への努力が始まったのですが、土佐を通して入り込んだ外国種の血液は強い影響を及ぼし和犬復元への足かせとなってしまいました、しかし、先人たちの努力でこれらの障害を乗り越え大型和犬、秋田犬の完成へと向かったのです。 日本犬の中で中型、小型は純度の保存からスタートできたのですが、秋田犬は、純度の抽出から始まって、今日まできたのです。現在もまだ完全に和犬に戻ったとは言えませんが、精神面においては完全に和犬そのものと私は信じています。雑化してしまった秋田犬が純度の高い他の日本犬を差し置いて最初の天然記念物犬に指定されたことは、和犬復元への熱意に希望を託したものと思われます。


40年程前、我が家にいた秋田犬、クマ・・・駒岩二号、秋田犬協会犬籍12207号
父犬・・・金山号、秋協10501   母犬・・・銀子号、秋保15029

          


海外の秋田犬のルーツ
子供の頃、我が家にいたクマが海外へ渡った秋田犬と同時期の犬であることがわかり改めて
秋田犬の歴史に興味がましていたところ月刊誌「愛犬の友」にその頃の秋田犬について載っていましたので、抜粋して書いてみました。

戦後、出羽系の金剛号は国宝犬と呼ばれ隆盛を極めていました。その為か、真っ先にこの直子たちがアメリカに渡ったのが海外の秋田犬の始まりとなったのです。 金剛系の風貌は今に至っても現地での繁殖によって濃厚に維持されており、肥満体質(海綿質と呼んだ)と独特の顔の模様、体色はしっかり遺伝されています。 これは第一弾ですが、第二弾となったのは斑犬の輸出です。昭和27年頃まで全盛を極めた出羽系の金剛系に代わって、じょじょに頭角を現したのが一の関系で斑犬の五郎丸号です。 この犬も金剛号と同じく遺伝力が強く、同系の犬たちと共に昭和30年頃に金剛系を駆逐してしまったのです。ちょうどクマの生まれた年が昭和31年ですので、クマには両系の血が五分五分に入っているようです。ここで不思議なのは五郎丸は斑犬でありながら、直子には斑が出ず、孫に出て日本中に斑犬ブームが起こったのです。そのような中で異様とも思われる虎斑が日本中で生まれるようになり、虎毛、赤毛ともに斑犬のオンパレードというような状態でした。このような犬が国内に氾濫し、金剛系を第一波とすれば第二波となります。 昭和40年生まれのデカはその頃の名残か斑犬でした。
いっぽう日本では、日本犬にはあるまじき醜悪な斑模様にようやく目覚め、白毛、一枚赤、一枚虎が尊ばれるようになり、赤毛は顔面の黒マスクは排除され、すっきりした黄赤の頬白又は逆マスク(白マスク)と方向が定まり、優秀な功労犬によって斑犬はアッという間に一掃されてしまったのです。これに秋協の純度の高い白毛が加わって、大型和犬としてのレベルは格段に上がったのです、昭和40年代後半のことでした。 これ以降、秋保のロスアンゼルス支部展も盛んに開催され、正しく整った秋田犬も輸出されたのですが、なにせ広い国土で先に渡米した第一波、第二波が独自に繁殖を重ねて来ているので、ここに日本との見方の違いが生じても仕方のないことでしょう。 日本では歴史が示すように3年もすればアッという間に衣替えしてしまう風土がありますが、外国はそうはゆかないのでしょう。 第一波、第二派に遅れてこのグループに属する犬が入り、その理解によって繁殖もなされ、したがって海外の秋田犬は三つのタイプに分別できるようになってしまったのです。

                  「愛犬の友」 日本犬講座、岡田睦夫氏の文章より抜粋しました。

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